「世間は足のはみ出るベッドのように住みづらい」といったのは誰だったか?
時に誰もが感じるそんな感情を、最も理解しているのはやはりお年寄りだと思う。だからこそ、お年寄りはクリーンな黄門(里見)よりもダーティーなアンチヒーロー(東野英次郎)を支持するのだろう。
月曜7時に里見浩太郎が印籠のシーンも悪くはない。悪者に襲われた村人の言葉に耳を傾ける里見には聖人の趣きさえ感じられる。だがしかし、セイント里見もそれまでだ。お年寄りには全てが分かっている。よく観察していると、お年寄りは醒めた目をしてこう呟いている「助三郎風情がよ・・・」。
東野英次郎の下で佐々木助三郎として活躍していた里見を、お年寄りはいまだに黄門として認めようとしない。それはきっと、毎回印籠を出した後に、服をドライクリーニングしているかのような里見の潔癖さが鼻につくと同時に、明らかに年上の八兵衛をあごで使う里見の不躾で思慮に欠けた行動に嫌気がさしているからだ。
さて、対してお年寄りの東野黄門への熱烈な支持はなぜなのか?紀元前から着ているようなクタクタの黄門服、下品極まりない笑い声、そして敵や時に部下でさえも杖で殴る暴力性。これら人間としての恥部とさえ言える行動の全てが
お年寄りを魅了してやまないのはなぜか。
誤解してはいけない。「多少悪い方が人間性がある」というゆるい意見のはるか何光年も先に、この黄門性は存在する。
数々の経験をしてきたお年寄りの多くは、またより多くの後悔もしている。理由は色々あるだろう。そしてその幾多の後悔を、東野黄門はその存在(黄門性)によって全てを肯定する。正しいかどうかなんて関係ない。「こんな人生であってもいい」ではなく、「諸君、これこそが人生なのだ」と。
「世間は足のはみ出るベッドのように住みづらい」
確かにその通りだ。高慢も偏見も嘘も破廉恥もつらいこと全てを受け入れよう。東野英次郎や苦しい経験をしてきても、それをおくびにも出さないお年寄り達のように。
僕が年をとった時、あの水戸黄門は再放送しているだろうか?